取材記事配信
2012.08.02
2011.09.15
2011.08.02
2011.07.21
癒しの空間「カフェ・バルコニーの家」
美浜区磯辺の閑静な住宅街の一角に、緑と季節の花々に囲まれた「カフェ・バルコニーの家」があります。ここは、社会への適応が難しい人達の自立を目的に、市民として当り前の生活ができることを目指す場所を作ろうと、代表の籔下(やぶした)敦子さんが自宅を開放し開設されました。
「地域の茶の間」として、毎週月・火・金のお昼には、手作りの美味しくヘルシーな食事や茶やスイーツなどがいただけ、予約なしでは入れない人気です。今回は美味しいランチをいただきながら、藪下さんにお話をうかがいました。
< 写真左・中央:店舗外観、写真右:代表の籔下(やぶした)敦子さん >
藪下さんは、55歳をすぎて精神医療と福祉について学ぼうと日本社会事業大学に編入学。自宅から2時間以上かけて大学に通い、テスト期間中は若い同級生の家に泊まり込みで勉強されました。その後、千葉大大学院でさらに学びを深め、心の病を持った人の支援について様々な模索を続けるうちに「心の病の治療に大切なのは、医療の力だけでなく、本人が自分で治そうという強い思いを持つこと、家族や地域の人達に見守られながら自分の力で普通の生活をしていくことではないか」との思いを抱かれました。
平成22年2月に「カフェ・バルコニーの家」を立ち上げ、同年9月にレストラン「地域の茶の間カフェ・バルコニー」を開業、10月にNPO法人となり現在に至っています。「地域やボランティアの方々に支えられ、行政との連携を果たしてくれている事務局長の石川惠一さん、料理を一手に引き受けてくれている副理事長の熊川眞知子さんがいなくては、できない事業です」と藪下さん。
現在ここに集うメンバーは20余名。それぞれが得意なこと、やりたいことを尊重し、様々な活動をしています。レストランの料理作りやホールでの接客、パソコンでの作業、経理を担当するメンバーもいます。また、別の場所にある500坪の農園では、レストランで使う有機野菜を作っています。藪下さんのご主人が独学で勉強し栽培を担当、土壌改良剤を作って販売もしています。この他、ビーズアクセサリーを製作する人、お弁当販売の営業を担当する人、みんな、今、自分にできることを精一杯やっている姿が印象的です。
< レストランの営業時間が終わって、思い思いの作業をしたり、寛ぐメンバーたち >
ほとんどの人が、最初は家族に連れられここを訪れます。初めは会話もなく不安と恐怖で包丁を持つことさえできなかった人が、今では活き活きと立ち働き、自分からおしゃべりするようになってきました。藪下さんがメンバーにかける一言一言がとても温かく、メンバーの支えになっているのでしょう。「自宅を開放しているのでプライベートがなくなってしまって」とおっしゃる藪下さんですが、「メンバーのためにできるだけのことをしたい」という強い思いが伝わってきます。
スタッフやボランティアの方々の温かい眼差しに見守れながら、メンバーは「自立への一歩」を踏み出しています。
< 料理 > |
(取材・文 仲野智美)
【カフェ・バルコニー】
営業時間 月・水・金 11時30分〜14時
043-377-3502 千葉県千葉市美浜区磯辺3-5-7
ホームページ http://www.cafe-balcony.jp/
虐待を受けた子どもたちを育てる専門里親
山中ゆりかさんに聞く vol2
虐待や育児放棄(ネグレクト)により心身に傷を受けたことで、養育が難しくなった児童を預かる「専門里親」山中ゆりかさん。一人めの里子、美郷ちゃん(仮名)に続き、愛ちゃん(仮名)を養育することになったが、それはゆりかさんの想像を超える厳しいものだった。
【もう限界かもしれない、と思ったことも】
3歳直前に山中家へやってきた愛ちゃんは、超未熟児で生まれ4ヶ月間保育器で育った。実母は体調が悪く、生活保護を受けていた。愛ちゃんのほか、1歳上の男児、愛ちゃんが1歳過ぎた頃生まれた第3子と、年子3人を抱え、発育の遅れがある愛ちゃんは育児放棄の状況にあった。児童相談所に保護された後、山中家へ預けられることになる。
「『妹が欲しい』と盛んに訴えていた美郷は、最初こそ『わたしの妹』とうれしそうにあちこち連れまわしていましたが、すぐに激しい嫉妬心を見せ、わたしの取り合いを始めました。しばしばものすごいけんかになりましたね、でも姉妹がいることで、譲り合ったり我慢したりということを少しずつでも習得して欲しいという願いがありました」。
愛ちゃんは、何かのきっかけで、すさまじい金切り声をあげて泣き叫んだ。どうなだめても、抱きしめても無駄で、小さな体のどこにそれだけの体力があるのかと思うほどの激しさで泣き続け、夜中や明け方にシーツを噛みちぎることも度々だった。一方、小学校高学年になっても友人ができず、教師とも良い関係が築けない、学習面でも遅れている美郷ちゃんに対し、ゆりかさんはあせりを感じ始めた。せめて基礎学力だけでもつけさせようと、嫌がる美郷ちゃんを塾に行かせたり、家で勉強をさせたが、これが裏目に出た。学校でも家でもストレスが高じた美郷ちゃんは、ゆりかさんの財布などからお金を抜き取り、ゲームセンターで散財する行為を始めたのだ。
この頃、それまで里子の子育てを手伝ってくれていた同居する義母が体調を崩し、ゆりかさんは追い詰められていった。愛ちゃんの癇癪と金切り声に、ついには左耳が難聴になった。精一杯のことをしているのに、なぜ? 養育母親としての限界を感じ、ある日小学5年生になった美郷ちゃんを連れて児童相談所に行った。「内心では、そのまま置いて帰ろうと思っていました」。児童相談所での面談や虐待防止研究会への出席を通じて、虐待を受けた子どもの養育は、児童養護施設でも児童自立支援施設でも難しいことを改めて認識する。「うちからまた施設に戻しても、何の問題解決にもならないよ」というご主人の一言に、ゆりかさんは里子を育てようと決意したときのこと思い出し、踏みとどまった。軽度の知的障害が判明した愛ちゃんは、児童相談所の計らいで保育園に障害児枠で入所し、ゆりかさんの負担も少し軽くなった。
当時の様子を、近所に住むゆりかさんの妹、篠原ともえさんは「里親の経験があるわたしたちの母に、遠慮なく愚痴を吐き出したり、児童相談所のサポートを受けたことで、乗り越えられたのではないでしょうか。周囲のさまざまなサポート体制がないと、里親だけで抱え込むことは難しいと思います」と振り返る。
【訪れた転機】
中学生になった美郷ちゃんは、偶然にもゆりかさんの甥(篠原ともえさんの長男)と同級生となった。「迷惑をかけてはいけないと思ったのではないでしょうか。美郷ちゃんはかなり萎縮していたように思います」と、ともえさんは語る。だが、中学1年生から2年生にかけてのさまざまな出来事が、美郷ちゃんを成長させていく。中学1年生の夏休み、美郷ちゃんの1歳違いの兄が児童養護施設にいることがわかった。「血のつながった兄にいつか会いたい」という希望が生まれる。中学2年生の時に、プロ野球の試合で選手に花束を渡す役を市から斡旋された。その様子が大スクリーンに映し出され、自分の姿にご満悦の様子だった。この頃、中学の卓球部顧問の教師から、大会出場の人数合わせに加入してくれと頼まれ、いきなり大会に出場した。「こうしたことが、美郷にとって、とてもプラスに働きました」。「試合には負けたけど、君のおかげで大会に出場できた。ありがとう」と教師に言われた美郷さんは、そのまま卓球部に入部、部活動を通じて友人もできると同時に、盗みもおさまった。
学校で、自分の居場所を見つけられず苦しんでいた経験からなのだろう、不登校を続ける同級生に、美郷さんはよく電話をかけていたという。喜怒哀楽が激しく、言葉遣いも乱暴で、大人からすれば「扱い難い子ども」の美郷さんだが、こうした他者への優しさも十分持ち合わせていた。
だがまた、進学した高校でトラブルが発生する。高校2年生のとき、教師に暴言を吐き反抗的な態度をとったと5日間の謹慎処分を言い渡された。美郷さんにも言い分はあり、理不尽な扱いを受けたと思った美郷さんは、その思いのはけ口としてまた盗みをしてしまう。この時はATMから引き出し、金額も大きかった。怒り心頭のゆりかさんは、アルバイトをして返却するよう言い渡し、美郷さんもそれに従い、きちんと返却した。謹慎処分を受けた生徒の多くは退学する高校だったが、美郷さんは「オレには夢があるから、学校はやめない」と、その後は頑張りとおし、念願の福祉専門学校に推薦入学をした。
今は独立して一人暮らしをしている美郷さんから、数年前の母の日、ゆりかさんは『ありがとう−今までも これからも−』(みやれいこ 学研スティフル 2006年)という詩の絵本をプレゼントされた。その1節には「さみしい時も かなしい時も 一緒にいてくれたから だから... 今までのように甘えなくても しっかり立てるようになったよ そして...大切なあなたの存在に改めて気がついたよ」とあり、最後の一文は「いつもはなかなか言えないけれど 心からありがとう」。
美郷さんは、実親の元で育つことができない子どもたちのカウンセラーになる夢に向かって、歩みを進めている。
(後記)
この原稿を準備中に、東京都杉並区で里子が里親に暴行を受け死亡するという痛ましい事件が起きた。容疑者の里親は「自宅の階段から落ちた」と容疑を一貫して否認(朝日新聞9月10日付け記事)しており、未だ詳細は不明であるが、この事件を知った時に、ゆりかさんの言葉が浮かんだ。「虐待を受けて育った子どもは、それを誘発するような行動を取る傾向があるんです。わざとたたかれる、怒られるような行動をする。こういってはなんですが、虐待する親の気持ちがわかってしまうようなね。本当に心から注意して育てなくてはならないと思いました」(vol1より)。
虐待を受けた子どもの養育の難しさを、改めて思い知らされた。次回は、千葉市児童相談所への取材と合わせ、里親制度の意義、課題をまとめたい。
(取材・文 野口いずみ)
稲毛・夜灯(よとぼし)で、子どもとともに
灯篭をつくる岸田輝美さん
かつて、海水浴や潮干狩りでにぎわった稲毛で、新月の晩に行われていた「夜とぼし漁」。カンテラの灯りで潮溜まりの魚を獲ったこの漁をヒントに、地域の活性化につなげようと、地元商店街の人々が中心となってつくりあげたイベントが「夜灯」だ。
稲毛・浅間神社周辺で6年前から開催され、地域の子どもたちが思いをこめて作った灯篭がカンテラの灯りに代わって町をやさしく照らす。子どもたちと一緒に灯篭を作り、このイベントを支えている岸田輝美さんは、常日頃地域に子ども参加型の祭りがないことを寂しく感じていた。「このイベントが、子ども手作りの灯篭を飾ることで、子どもが祭りに参加でき、同時に地域の大人たちとも関わり合うことができると、強く惹かれたんです」。たまたま発起人と友人だったこともあり、当時小学校のPTA会長だった岸田さんは、近隣小学校の子どもたちに対するワークショップを担当し、手伝うことになった。数十名のスタッフを集め、子どもたちに想いを伝えながら灯篭を制作するという大切な任務を、第1回目からずっと続けている。
「年を追うごとに、子どもたちの反応、そして先生方の夜灯への反応の変化に手ごたえを感じています」。ここ2,3年、先生方も祭り当日にバンド演奏という形で参加し、その姿を子どもたちに見てもらうことで何かを感じてもらいたいと、積極的な姿勢を示してくれるようになった。ワークショップは、近隣小学校3校の理解を得て、授業時間の中で行われる。毎年決まったテーマで、子どもたちは和紙に絵を描く。今年のテーマは『楽しいこと』。子どもたちの描いた絵は、スタッフたちでラミネート加
工し、ぐるっと輪っかにして灯篭を作り、祭り当日、一つ一つロウソクに火を灯す。子どもたちにとって、自分の描いた絵の灯篭を探し出すのが大きな楽しみになる。
以前に作成した灯篭も大切に保管されている。その年の作品は学校ごとに展示場所が決まっているが、過去のものはランダムに配置されるため、探し出すのは至難の業だ。しかし、本当に稀に、出会えることがある。数年前に描いた自分の絵に遭遇した時は、感動もひとしおだ。これまでのものを含め、今年は8000個の灯篭が並ぶ。
岸田さんは、子どもたちに「もしおばちゃんが年取っていなくなったら、誰かがおばちゃんの代わりをやってね」と、願いを伝える。それは岸田さん個人の想いであるとともに、「町の記憶を未来に伝え、暮らす人々の繋がりを大切に」という夜灯の趣旨でもある。実際に、小学生の時、灯篭の絵を描いた子供たちが、その後中学生になりイベントの手伝い・後片付けをするような例も増えているとか。「彼らが大学生になった時、ワークショップのスタッフとして参加してくれる、そんな形でこの祭りがずっと続いていったら、どんなに素晴らしいだろうかと思うんです」。
岸田さん自身、夜灯を通して、「顔見知りが増えた」という。これまで同じ町に暮らしながら、知り合うきっかけのなかった人たちが夜灯を通じて"顔見知り"となり、道で会えば挨拶が交わされる。それは子どもたちにとっても同じことで、自分たちの暮らす町に子どもを見守ってくれる人が増えるということになる。母親にとって、稲毛がより安心して子育てできる町に変化していることを意味する。「夜灯を通して、新たなコミュニティが作られつつあることが、本当に嬉しい。そしてこの輪をもっともっと広げたい」と岸田さん。
「稲毛の町を海に見立て灯りをともします。灯篭の灯りは、本当に優しいんです。癒されに来てください。そして灯り一つ一つに込められた子どもたちの想いをじっくり感じて下さい」。
今年も11月に夜灯が開催される。第6回稲毛あかり祭夜灯(プレ声明コンサート11/13・前夜祭11/19・本祭り11/20)
詳細は夜灯HPで。(http://yotoboshi.org/)
(取材・文 スズキ ユキ)
虐待を受けた子どもたちを育てる専門里親
山中ゆりかさんに聞く vol1
虐待や育児放棄(ネグレクト)によって、命を落とす子どもが後を絶たない。その度に心痛めるが、「何てひどい親だ!」と憤慨するだけでは、問題は解決しない。
さまざまな理由で、実親の元で暮らすことが難しい、暮らせない子どもを自分の家庭に迎え入れ、家庭の温もりの中で愛情を持って養育する「養育里親」という制度がある。
中でも虐待などにより心身に傷を受けたことで、養育が難しくなった児童を預かるのが「専門里親」である。千葉市で現在5組しかいない専門里親である山中ゆりかさんに、里親としての体験談をうかがった。
【私にできることは?】
音大のピアノ科を卒業し、精神科医であり牧師でもある伴侶を得た山中ゆりかさんは「経済的にも恵まれ、ピアノ教師をしながら、いいお母さんになるためにお料理を習ったり、趣味の習い事をあれこれやって、お気楽な日々を過ごしていました」。ただ子宝には恵まれず、不妊治療にも通った。諦めかけた頃妊娠、その喜びもつかの間、異常妊娠のために生死の境をさまようことになる。危機を脱し目覚めたベッドの上で、生きていることの喜びをかみしめた。「生きていることは、あたりまえのことではな
い。命の大切さを改めて実感するとともに、せっかく生かされた命を、何かの役に立たせたいと思うようになりました。その方法として、里親になることを考え始めたんです」。
こう考えるようになったのは、ゆりかさんのご両親からの影響も大きい。ご両親が養育里親をやっていたのだ。「私が大学生になった頃から、夏休みなどに養護施設の子どもたちをショートステイで1週間ほど預かるようになったんです。2歳違いの妹も大学進学のため実家を出て、両親は心にぽっかり穴が開いたようで、その気持ちの向かった先がこうした行動になったようです。何人かの子どもたちを短期で預かった後、中学3年生の女の子を養育することになりました。私たち姉妹に相談はありませんでしたが、特に驚きもしませんでした」。
母親は病死、父親は家出、兄弟も離散し、ライフラインを全て止められたアパートに一人でいるところを、民生委員や担任を通じ、児童相談所に保護された少女だった。反抗的な態度を取り続ける少女に対し、忍耐強く、感情に流されることなく、愛情深く接する両親の姿を山中さんは見守っていた。やがて落ち着きを取り戻した少女は、ゆりかさんの実家から嫁ぎ、母親となった。「彼女と両親の関わりを見ていて、たとえ血のつながらない親子でも情愛が育まれ、良い親子関係は結ばれると感じていました」。
91年10月、虐待を受けて心身ともに発達が遅れている3歳の女の子、美郷ちゃん(仮名)を育ててみないかと、児童相談所から打診された。「電話をもらって、一日中その子のことを考えていました。マスコミでしばしば目や耳にはしていたけれど、突然自分の目の前にその現実が突きつけられた。小さな無抵抗の子どもが、実の親から激しくたたかれ、泣き叫ぶ姿が目に浮かんで,,。私にできることは何かと、他のことが手につかなくなったんです」。
夜、ご主人の帰りを待ち、児童相談所からの依頼を打ち明けた。「虐待を受けた子を育てるのは難しいよ」。精神科医として、その難しさを熟知しているご主人は、やんわりと諭したという。だが、すでにゆりかさんの心は固まっていた。引き取って育てようと。
【格闘の日々】
その決心が固いことを知ったご主人は、協力すると言ってくれた。ご夫婦そろって児童相談所へ行き、初めて会った美郷ちゃんは、ベタベタ甘えてきたかと思うと、すぐに癇癪を起こす、精神的に不安定な子どもだった。「生年月日を聞くと、偶然にも近所に住む甥と同じでした。私の妹の長男で、初孫ということもあり、私の両親は目に入れても痛くない可愛がり様で、周囲の愛情を一身に受けて育っていた。なのに、同じ日に生まれたこの子は誰からも大事にされなかった。そのギャップを思うと、もう放っておけないと思ったんです」。
10回ほどの面談を繰り返し、いよいよ一緒の生活が始まった。覚悟はしていたはずなのに、まさに格闘の日々だった。昼夜を問わず、金切り声で泣き叫ぶ。モノを壊す。おしっこやウンチの失敗を繰り返す。やたらガツガツと食べる。何軒も問い合わせ、ようやく受け入れてくれた幼稚園でも、集団生活に馴染めず、トラブルメーカーとなった。
「虐待を受けて育った子どもは、それを誘発するような行動を取る傾向があるんです。わざとたたかれる、怒られるような行動をする。こういってはなんですが、虐待する親の気持ちがわかってしまうようなね。本当に心から注意して育てなくてはならないと思いました」。
「あなたのことを誰よりも大切に思っている」というメッセージを、折に触れて山中さん夫妻は美郷ちゃんに伝え続けた。不機嫌で、感情の起伏が激しい中に、感受性の豊かさややさしさを見せることもあり、そういったひとつひとつが、ゆりかさんを勇気づけもした。
小学生になると、座席に座っていられない、注意されると教室から出て行ってしまう、思い通りにならないと級友にかみつくなどの行動で、度々先生から呼び出しを受けた。事情を説明してあったにもかかわらず、なかなか理解が得られなかった。「愛情不足ではないか」と言われ、怒りで体が震えたこともあったと打ち明けてくれた。
ゆりかさんは、幼稚園や小学校の保護者会で、里親であることを公にし、心に傷を受けたために問題行動を起すかも知れないが、温かく見守ってやって欲しいと挨拶した。公にすることは、プラスマイナスの両面がある。噂や陰口の対象になったり、いじめの原因になると、里親によってはそのことを公にしない人もいる。「周囲の理解や協力を得るには、やはりある程度事実をお伝えしなくてはと思ったのです。確かにマイナス要素もありますが、事情をお話しすれば、必ず理解し協力してくれようとする方も現われます。『私たちが声をかけ、暖かく見守ることで、美郷ちゃんの心の傷も少しずつ治っていくんですね』と、家に呼んでくれたり、見かけると声をかけてくださるお母さんたちが、本当にありがたかった」と語る。
小学3年生になったとき、美郷ちゃんはしきりに妹を欲しがるようになった。彼女のためには兄弟がいたほうがいい、と考えた山中夫妻は、児童相談所に二人目の子どもを預かりたいと申し出た。それは更なる過酷な子育ての幕開けとなる。(次回配信に続く)
(取材・文 野口いずみ)
坊さんおやじバンド
7月2日(土)震災チャリティライブ開催!
会場:浜野・本行寺内 長源院
【住職率いる『テンプルズ』、結成5周年記念ライブは震災チャリティに】
「坊さんはいいよなぁ、定年がなくて。俺なんか会社定年になったら、毎日やることないもんなぁ」幼馴染の並木安雄さんが、こうつぶやいた。「そんなショボくれたこと言ってないで、好きな音楽でもやったら」とハッパをかけたのが、坊さんの朝倉俊幸さんだ。並木さんは若かりし頃、グループサウンズの一員としてプロ活動をしていた経歴を持つ。朝倉さんも、学生時代は軽音楽部に所属し、バンド活動に熱を入れていたという。当初は、二人でたまにギターをかき鳴らしながら歌う程度だったが、やるうちに「やっぱり、ベースやドラムも入れたいよね」ということになり、並木さんの甥っ子やら知人らを誘い、5年前にバンド『テンプルズ』を結成した。
浜野町にある本行寺は、1469年に創建された千葉の名刹で、朝倉さんは41代目の住職である。今が盛りのハスが咲く池、鐘楼...歴史ある寺らしい風景の一角で、ロックバンドが練習をしているとは知る由もない。敷地内に、「人生最大の浪費」と妻子に酷評されながらも、防音の練習スタジオまで造ってしまった。
演奏ジャンルは、ベンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズ、和製ポップスから童謡唱歌などなど「ごった煮バンドと揶揄されています(笑)」で、レパートリーは70曲近く。だが、音楽的リーダーの松原さん以外はほとんど楽譜が読めないため、覚えては忘れの繰り返
し。ライブ近くになると「衰退傾向の記憶の回路を必死にフル回転させ、演奏にこぎつけます!」
そのライブが、7月2日(土)本行寺内の宿坊・長源院にて行われる。開場:18時30分、開演:19時〜 ゲストバンドとして出演するのが医師バンド『COG with SAKI』というから、ブラックジョークのような取り合わせであるが、目的は震災被災者への募金である。「この時期に、趣味のバンド活動に浮かれていいものかという思いもありましたが、我々の演奏で少しでも募金が集まればと、企画した次第です」と、朝倉さん。
住職だけあって、曲の合間のMCはお手の物。ほとんど漫談のようなしゃべりで笑いを取るが、「実はけっこうプレッシャーなんです。メンバーからは、しゃべりすぎるなとクギを刺されるし」。さて2日のライブでは、どんなトークと演奏が炸裂するのか?!
問い合わせ:本行寺 TEL 043-261-3616
(取材・文 ちば聞き書き塾)
ホキ美術館 開館記念第2弾開催中!
「静物と風景画展」5月28日(土)〜11月13日(日)
【保木将夫さん個人所蔵の写実絵画、約300点】
昨年11月にオープンした『ホキ美術館』は、千葉市最大の公園「昭和の森」に面し、風が突き抜けていくようなイメージの建物だ。周囲の環境とも調和した地上1階・地下2階建ての館内には、163点の絵画がカーブを描くように展示され、訪れた人は個人の館に招かれたような気分になる。
館長であり創設者である保木将夫さん(ホギメディカル(医療機器メーカー)創立者・社長)は1998年、写実の代表的な現存作家である森本草介の『横になるポーズ』という作品に出会い感動を覚えた。以後森本草介の作品を収集、現在32点を所蔵し、間違いなく日本一の森本コレクターである。さらに、世界から高く評価されている日本の油絵の写実技術にも注目し、作品を集めている。
保木館長所蔵の約300点の作品の中から、36人の作家の作品が展示されており、森本草介(鎌ヶ谷市在住)のほかに、存在感のある野田弘志、愛妻をモデルに女性の神秘を描き続ける中山忠彦(市川市在住)、オランダ絵画に影響を受けた磯江毅など、千葉に縁のある作家も多い。
【写実の絵づくりに惚れ込み、長年の夢を実現!】
こうしたコレクションは、これまで館長の邸宅(土気)隣に設けられた私邸ギャラリーで年2回ほど一般公開していたが来場者数が1日で1千人を超えたのを機に「美術館をつくりたい」という長年の夢を実現させた。
「写実」の定義はいろいろあるが、真に迫ったように描く技法であり、写真的ということではない。だが会場では、作品の間近で「これ、写真だろ?」「板を貼ってあるの?絵じゃないよねぇ」と、会話が飛び交う。「写実絵画は、大作になると1年に描ける作品は1、2点。同じところを何度も塗り重ねる、大変な仕事です。そこから生まれる美しさは本物です」と、館長はその絵づくりに惚れ込んでいる。「今、日本には65歳以上の人が3千万人います。その1%でもいいから、美術館に足を運んで絵を観てほしい。もちろん若い人たちにも」と願う。
美術館の一角には、絶大な人気を誇る西麻布アルポルトのシェフ、片岡護プロデュースのイタリアンレストラン「はなう」も併設。保木さんが願ったとおりの「入りやすい、観やすい、わかりやすい」美の館で、写実絵画を心ゆくまで楽しまれてはいかがだろう。
詳しくは『ホキ美術館』HP
(取材・文 石川 昭子)
ちば聞き書き隊主宰者
野口いずみ氏にインタビュー!
がんばっている人達の活動を伝えたい。
【人生に意味づけを与える仕事】
野口さんにインタビューしていて一貫して感じたのは、拍子抜けするほどの徹底した気負いのなさだった。「たまたま頼まれたことをこなしていたら今がある」「名文は必要ない」「才能ではなく、トレーニング」・・・インタビュー記事とは、インタビューを通して紹介される側のためのもの。また依頼者、読者のためのものであり、インタビュアーの自己表現は必要ないと言い切る。あくまで媒介者であり裏方、このストイックさこそがその才能を開花させたのではないだろうか。。―才能と言うとまた怒られそうだが―
そもそも、プロのライターになりたいという夢や強い動機があったわけではない。学生時代に出版社でアルバイトをしていた延長に、今の仕事がある。はじめは雑用、次は数行の商品紹介記事、そして「お前書けそうだな」と週刊誌見開き一頁へという風に。気負いのなさも納得できる、うらやましい経歴だ。そんな野口さんが、これまでインビューしてきた相手は、障害者の親御さん、一芸に秀でた職人さんに大物政治家や誰もが知る芸能人等々・・・と多岐に渡る。彼らの生き方から感銘を受けることも多いが、必ずしも素晴らしい体験だけではない。世間の常識が全く通用しなかったり、礼を尽くしても理不尽な対応を受け喧嘩をしてしまったり・・・インタビューを通して、様々な体験をしてきた。
人生は十人十色。百人いれば百通りの人生があり、意味のない人生なんてないはず。そこにスポットを当て、媒体を通じて他者に紹介することで、その人の人生に意味づけができる。それを喜ばれることが嬉しいと話す。
【自分の立ち位置でベストを尽くす】
「今後の展望は?」と尋ねると、「市川手をつなぐ親の会」の活動を例に挙げ、「がんばっている人達にスポットをあて、その活動を世間の方々に伝えていきたい」。そして、こういった人達との出会い、ライターの仕事を通して、自らにできる社会貢献を考えるようになった
と言う。今回「ちば聞き書き隊」を発足したのもこうした考えからだ。与えられた小さな仕事を一生懸命こなし続けた結果今の地位や実績があるように、決して大げさな志や夢を掲げるのではなく、まずは身近なところで自分の出来ることから一歩ずつ着実に踏み出していく。「自分の立ち位置でベストを尽くす」野口さんの仕事に対する精神を垣間見た気がした。
(取材・文 スズキ ユキ)